『色気を出したら50年続かないよ』

松山の誇るバーマンのお言葉。

酔ってるので後日追記予定。

ff88df0f.jpg


(追記)
でも言葉はいらなかったりもする。私がもう会うことのできないバーマンのお話やら、今のバーマンのお話やら。ちょいとここには書き辛いお話をまとめると最初の一言になります。酔ってても私エライ!ちなみに色気と言っても異性関係ではなくてよ。

2008年8月22日愛媛新聞より転載

松山市二番町二丁目の老舗バー「露口」が開店五十年を迎えた。マスターの露口貴雄さん(71)はハイボールにこだわり、半世紀を歩んできた。

 一九五八(昭和三十三)年八月十五日に開店。終戦の日にしたのは「空襲で逃げ回った世代だから」

 徳島市生まれの貴雄さんは高校卒業後、大阪で三年間修業。その後、松山で念願の店を持った。まだまだ戦後の復興の途中。「バーテンダーは引く手あまただった」当時は、西洋文化が今以上にまぶしかった。

 開店した五八年は東京タワーができた年。日本は高度経済成長に向かって走り出す。「新しい時代がくる予感がした」とはいえ、当時の松山では日本酒、ビール、焼酎が定番。「洋酒文化が根付いていないこの地で、やっていけるのかと不安だった」と笑う。

 「開店当時は大街道商店街から店の看板が見えた」ほど閑静だった店の周辺も、日本の右肩上がりの成長に呼応するかのように華やかさを増した。

 ただ、豊かになるにつれ、人々の嗜好(しこう)も変わった。水割りや焼酎、ワインがブームになると、昭和三十年代を席巻し、同店代名詞のハイボールは昔の安い酒というイメージがつきまとった。「水割りならバーテンダーじゃなくてもできる」。露口と同じようなバーは次第に姿を消していった。

 それでも、露口はハイボールを看板にし続けた。ウイスキーとソーダ水の割合やグラスの大きさなど開店以来のやり方で味を守り続けた。ビールを出さず、ボトルキープをしないポリシーも頑固に維持。そんな姿勢に共感した会社員や企業の社長、芸術家などが「バーテンダー不毛の時代」を支えた。

 こだわり続けたハイボールは今、「伝説の味」として注目されている。そのハイボールを求めて全国各地から客がやってくる。「バブル期は高価な酒が理由もなくもてはやされた。今は本物が分かる人が多くなった」。職人かたぎのこだわりが時代をもう一度引き寄せた。二人三脚で店を切り盛りしてきた妻朝子さん(65)は「五十年もたったのかな。不思議な感じがする」と話す。

 開店時から変わらないカウンターはタモの木の一枚板で、長さ六メートル、幅六十センチ。客と遠すぎず、近すぎない絶妙な距離を保つ。バーテンダーにとって「舞台」であるこのカウンターで「一日一日勝負してきた。時代に流されていたら続かなかった」と貴雄さん。店が“還暦”を迎えるまで「また一日一日が勝負です」


Add Comments

名前
 
  絵文字
 
 
基本的に日曜休業です。
祝祭日の関係で変則的になる場合は事前にご案内いたします。

営業時間
18:00~good time

テケトー画像
  • 15 YEARS OLD
  • AGED 14YEARS
  • とりま営業再開
  • 不動ドアのお知らせ(再追加)
  • 不動ドアのお知らせ(追加)
  • 不動ドアのお知らせ(2021睦月)
  • 空きました。
  • OLD SUNNY BROOK WHISKEY 1917-1933
  • OLD SUNNY BROOK WHISKEY 1917-1933
アーカイブ
記事検索